こんにちは。AXIAの阪田です。
先日娘が「友達と喧嘩した」と帰宅。喧嘩の内容を聞くとどちらが悪いとも言えず。
娘は「腹が立つ」と繰り返しつつも悲しそうな表情。
お友達の剣幕に圧倒され、何も言えなかったようです。そのモヤモヤを私に必死で伝えていました。
ひと通り話を聞いた後、娘に「どうしたいの?」と聞くと、
「・・・仲直りしたい・・・」と。
母親として娘への助言は何が正解なのかは、子供の性格によっても違いはあるとは思います。
私は喧嘩になるという事はお互いに少なからず非があり、
その非に対しては謝るべきという事を知って欲しいと考えました。
謝罪とは、罪やあやまちをわびること。
とても重い言葉に感じますが、毎日1回は謝罪の言葉を発していますよね。
仕事をされている方は特に必ずと言っていいくらい発する言葉ではないでしょうか。
コミュニケーションツールでいいの?
以前見た記事の話です。
最近の新入社員や若い世代の方は謝る事を知らない。謝る事ができないために仕事を辞める人がいる。
これに対して「謝る」行為をコミュニケーションツールのひとつと考える事で
「悪くないのに謝らなければならない」という気持ちから解放される。
という内容でした。
私には疑問しか残らない記事でした。
コミュニケーションツールのひとつと考えるなら、連日のようにテレビで流れる謝罪会見は
どう解釈すればいいのだろうか。
世間からのバッシングを回避し、印象回復のためだけのツールとしての謝罪なんだろうか!
いやいやダメでしょう!!
つね日頃使われる謝罪ひとつひとつには「謝る事」の意味が含まれていなければならないでしょう!
謝罪の本来の意味を知る・教える必要性
娘の喧嘩を例に考えてみます。
友達と遊ぶ約束をし、ある公園で待ち合わせをしたそうです。
しかし友達は現れず待ちくたびれた娘は他の公園へ行き、
その公園には別の友達がいてその友達と遊ぶことにしたそうです。
しばらくして約束していた友達と遭遇する事になり喧嘩になったとの事です。
「私は悪くない。約束を破ったのは友達の方。」
「悪くないのに謝らない。」と言います。
確かに、娘の言い分は間違えではありませんし、否定もしませんでした。
ただし、相手が怒っているという事はこちらにも非があったのでは?考えてみたら。と。
友達と仲直りしたい娘は自分なりに考えたようです。
自分の判断で他の友達と遊んだ事への謝りの手紙を書いているようでした。
「仲直りしたいなら謝ったら!」と言えば簡単で早い結果が得られたかもです。
しかし、お友達の怒りを知って欲しかったから娘自身に考えてもらうようにしました。
(この喧嘩はその後、無事仲直りできたようです。)
相手の怒りを知り、感じる謝罪であるべきです
相手の怒りを知った際、真っ先にあなたはどう考えます?
➀「怒っているから謝らなければ」
➁「なぜ怒っているのだろうか?」
➁のように相手の怒りを感じ・考える事ができるのであれば、謝罪をコミュニケーションツールと
考えるのも正解だと思います。
しかし、➀のようにその場しのぎのツールとしての謝罪は相手には意外と伝わるものだと私は考え、
謝る行為が逆効果になる事もあるのではと思います。
仕事の上では➀の使い方をする場合も多々ありますが、このようなコミュニケーションでは
心に理不尽さが残る結果となってしまいます。
「新入社員や若い世代の方は謝る事を知らない。謝る事ができない。」ではなく
「謝罪の本質を知る事の大切さ」を教えてあげるべきなのではと思います。
世の中には理不尽な事があふれています。生きていくからにはその理不尽とも向き合わなければなりません。
そんな時に心に理不尽さが残らないようなコミュニケーションができるよう、
今一度、謝罪の本質を考え直してみてはいかがでしょうか。
最後に
今回の話は娘の喧嘩を題材にしましたが、自身の過去の教訓からの話でもあります。
私が20代の頃は「女」というだけでまだまだ理不尽な扱いをされる事も多く、
相手の理不尽な言葉ひとつひとつを考え・行動に移す必要性がありました。
謝罪するべきところ、否定するべきところを、見極めなければ相手にすらしてもらえませんでした。
相手の怒りを感じる事の繰り返しが、「相手を怒らせないコミュニケーションができる」につながると、私は考えています。
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